「防げない事故を防げ」と強要すると身体拘束が始まる
【検討事例】
特養の入所者Dさんは認知症が重い利用者で、車椅子からいきなり立ち上がり転倒することがあるため、職員が交代で見守りをしています。ある時、介護職がDさんの近くで記録を書きながら、見守っていました。すると突然Dさんが立ち上がり、そのまま前に転倒しました。介護職はDさんの動きに気づきましたが、気付いた次の瞬間にはもう転倒していたのです。Dさんは救急搬送され、頭部打撲のためしばらく入院することになりました。家族は「近くに居た職員がもっと注意していれば防げたはずだ」と介護職の謝罪を求め、施設長もこれを認めたため謝罪することになりました。しばらくすると、介護職たちはDさんが立ち上がれないように拘束してしまいました。
■職員がそばに居れば転倒事故が防げるか?
本事例のように、職員がそばで見守りをしている時に、利用者が突然転倒し駆け寄ったが間に合わずに転倒させてしまう事故が、施設では頻繁に起こります。管理者は「そばで見守っているのだから注意していれば転倒は防げるはず」と考えているので、「もっと注意して見守りをすべき」と指導します。また、本事例のような賠償金を請求してくる弁護士も同様に、「介護職員がすぐそばに居たのであるから、十分に注意していれば事故は容易に防げたはず」と決めつけます。事故が裁判になった場合の裁判官の判断もほとんど同じです。
しかし、そばに職員が居たからと言って、常時利用者に顔を向けてじっと見守っていることはありませんから、近くに居たからと言って転倒が防げるはずがありません。また、仮に職員が利用者を注視している時に転倒事故が起こったとしても、すぐに駆け寄って利用者を支えることができるかも疑問です。このように、利用者の近くに職員が居るような場面で転倒が起こっても、現実に防げるケースはわずかなのです。
ところが、「介護職員がすぐそばに居たのであるから、十分に注意していれば事故は容易に防げたはず」と主張されると、施設も過失を認めてしまいますし保険会社も仕方なく保険金を支払ってしまいます。介護現場の状況をよく考えてみてください。介護職員はプールの監視員とは異なり常時利用者が転倒しないように注視している訳ではありませんから、何の予兆もなくいきなり転倒する利用者を駆け寄って支えるなどということは不可能なのです。
■科学的根拠が無いから無過失を主張できない
さて、前述のように防げる確率が低い事故なのに、安易に過失と認定されてしまうのは、なぜでしょう?理由は、職員が近くに居るとどれくらい転倒が防げるかの科学的実証データがないことです。弁護士や裁判官のみならず、介護の現場でも「転倒事故は注意して見守っていれば防げる」と管理者や職員自身も考えていますから、過失と認定されても誰も異議を唱えません。
しかし、「転倒防止のためにもっと注意して見守りなさい」という現場の指導のせいで、介護職員は大変大きな負担を強いられている現状があります。また、「立ち上がるから転倒する、立ち上がらないように座っておいてもらおう」などと考える職員もいますから、身体拘束の問題にもつながるのです。
では、「職員がそばに居ても転倒は防げない」という科学的実証データがあったら、賠償請求や訴訟のみならず、現場での転倒防止対策の考え方も変わるのではないでしょうか?「この利用者の転倒事故は防止確率が10%とほとんど防げないのだから、転倒した時骨折しないような対策も考えよう」とならないでしょうか?
さて、弊社(株式会社安全な介護)では、職員がそばに居て利用者が転倒した場合、どれくらいの確率で転倒事故が防げるのか、実証実験を行い転倒防止確率が低いことを科学的実証データとして確認しました。実証実験のデータを一部ご紹介します。
今後は裁判や現場の事故防止活動においても、これらの科学的実証データを活用して、合理的な過失判断を行うとともに、現場の転倒防止活動の見直しをしていただきたいと思います。
■転倒防止の実証実験とは
1.実験方法
(1)歩行介助中の転倒防止実験
◎利用者は左半身麻痺で右手に杖を持って歩行しています。介護職員はやや左後方の手の届く距離に立ち、いざという時支えられるように付き添って歩きます。介護職員は利用者との接触を避け、歩行の障害にならないように、50センチくらい離れて付き添って歩行します。
◎5メートルの距離を歩行して行き一度だけ転倒しそうになり、介護職員は利用者を転倒させないように支えます。
◎転倒の仕方(転び方)
・転倒の仕方(転び方) 「患側へのふらつき」「膝折れ」「つまづき」の3種類
◎転倒を防止する職員
・1回目~15回目:介護職員(経験年数14年)
・16回目~30回目:介護職員(経験年数4年)
(2)見守り中の転倒防止実験
車椅子に座っている利用者が突然椅子から立ち上がり、直後または一歩踏み出した後に前方に転倒します。少し離れた場所にいる職員が駆け寄って利用者を支えます。
・職員の位置は1.5mと3.0mの2種類
・転倒の仕方は「立ち上がってすぐ」「立ち上がり一歩踏み出して転倒する」の2種類
・職員の見守り方法は「じっと見守っている」「利用者を見たり見なかったり」「記録などの作業をしながら見守っている」の3種類
■転倒防止実験の結果(抜粋)
転倒防止実験の結果は次のようになりました。
(1)歩行介助中の転倒防止実験
転倒の仕方 転倒防止回数
患側へのふらつき 9回/10回(90%)
つまづき 2回/10回(20%)
膝折れ 0回/10回(0%)
合計 11回/30回(36.6%)
(2)見守り中の転倒防止実験
見守りの方法 転倒防止回数
じっと見守っている すぐに倒れる 0回/5回(0%)
1歩踏み出して倒れる 3回/5回(60%)
見たり見なかったり すぐに倒れる 0回/5回(0%)
1歩踏み出して倒れる 3回/5回(60%)
作業をしながら すぐに倒れる 0回/5回(0%)
1歩踏み出して倒れる 1回/5回(20%)
合計 7回/30回(23.3%)
■本実験が実証したこと
本実証実験の結果、歩行介助中の転倒に対しては、転倒の仕方によって防止可能性が異なることが分かりました。ふらつきは防ぐことが可能ですが、躓きと膝折れではほとんど防げないことがわかりました。また、見守り中の転倒については、立ち上がってすぐに転倒するとほとんど防げないことをよくわかりました。
つまり、本事例の転倒事故はもともと防げなくて当たり前の転倒事故ということになります。防げないような事故を防げと介護職に強要すると、介護職は立ち上がらないように身体拘束をするようになります。昨年度から身体拘束廃止の取り組みが強化されましたが、防げない転倒を無理に防ごうとするところにも、身体拘束をしてしまう原因があるのではないでしょうか?