運転経験の少ないドライバーは安全運転適性に欠ける
【検討事例】Rさんは、一部上場の有名企業を62歳まで勤め上げ定年で円満退職しました。ヘルパー2級の資格を取り、あるデイサービスに送迎車の運転業務の嘱託社員として採用されました。就職して1ヶ月後のある日、Rさんは利用者を送迎した後施設に戻る途中で、一時停止を無視して飛び出してきた小学生と危うく衝突しそうになりました。Rさんは興奮して大声で「一時停止しなきゃダメじゃないか!」と強く叱り、転倒した小学生は「ごめんなさい」と謝ったので、Rさんはそのままデイサービスに戻り業務を終了しました。Rさんはデイサービスに戻ってから、「子供が飛び出してきて衝突しそうになった」と運転日誌に書きました。
ところが、転倒した小学生は自宅に戻り母親に「車にぶつかって自転車が壊れた」と訴えました。その上、足には擦り傷ですがケガをしています。母親は車の素性を問いただしましたが、子供は「“デイサービス”という字は読めたが、あとは分からない」と言います。母親はすぐに警察に電話して、被害届を出しました。警察ではひき逃げ事件として扱い、5人の警官が一晩中周辺のデイサービスを捜索しました。明け方、車両に傷のあるひき逃げ犯のものと見られる、デイサービスの車両が発見され、Rさんはひき逃げの疑いで逮捕されてしまいました。
警察から事情聴取を受けたデイサービスの所長は「長年有名企業を勤め上げ、真面目で協調性があり、ゴールド免許だったので採用した。まさか、ひき逃げをするとは思わなかった」と言いました。しかし、その後Rさんは前職で、経理や財務を専門に担当していたため、社用車の運転経験がほとんどないことが判明しました。
■道交法の事故発生時の運転者の義務を知らなかった
本事例のトラブルの直接的な原因は、運転手が交通事故発生時の対処を誤ったことです。一時停止無視とは言え、送迎車にぶつかりそうになり転倒した小学生を放置したまま運転手がその場を立ち去ったことは、重い道路交通法違反行為です。たとえ衝突していなくても、自転車の小学生が転倒してケガをしていれば、救急車を呼び警察に届け出なければならないことは、自動車運転手の常識です。
道路交通法では、交通事故を「車両等の交通による人の死傷若しくは物の損壊」と定義しており、同法72条2項では交通事故発生時の自動車運転者の義務を「負傷者の救護義務」「警察への報告義務」と定めています。ですから、本事例ではたとえ送迎車両が自転車と接触していなかったとしても、交通事故に該当しますから、負傷者の救護義務と警察への報告義務が発生するのです。特に救護義務違反はいわゆる「轢き逃げ」に該当する罪の重い行為ですから、逮捕されても仕方ありません。
ちなみに、交通事故発生時の運転者の義務違反には行政処分だけでなく刑事罰があり、負傷者の救護義務違反に対しては、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金、警察への報告義務違反でも3月以下の懲役又は5万円以下の罰金という刑罰が科されます。この運転手も免許の点数や行政処分だけでは済まされないでしょう。
■運転経験が安全運転能力につながる
では、なぜ60歳を過ぎた自動車運転経験の長い真面目な人が、免許取りたてのドライバーのような初歩的なミスを犯したのでしょうか?後日判明したことですが、この運転手は前職の会社で経理・財務畑一筋であり、会社の業務用車の運転経験がほとんどありませんでした。仕事で社用車を運転する必要が無い人は、休日にマイカーしか運転しませんから、俗に言うサンデードライバーです。運転経験が少なく、自動車事故を起こした経験もないので、常識的な判断もできなかったのでしょう。
ですから本事例のトラブルの本当の原因は、運転手の非常識ではなく、前職の運転経験を確認せず安全運転適性のない人材を施設が採用してしまったことなのです。事故発生時の対応などを含む広い意味での安全運転能力は、自動車の運転経験に比例します。仕事で毎日車を運転する人は、事故に遭遇することもあるでしょうから、対処の方法を経験から学びます。介護の資格を持ち協調性があっても、肝心要の安全運転能力が一般のドライバーよりひどく劣る人材を運転手として採用してはいけません。車椅子を3台も載せるような大きな送迎車は、車体が大きく内輪差もあり、乗用車の運転に慣れている人でさえ危険が伴うのですから。
定年退職者の安全運転能力は、前職での業務用車の運転経験に左右されますから、これらの人材を運転手として採用するには、前職での業務用車の運転歴や事故の経験なども、厳しくチェックする必要があります。
■運転手の安全運転教育の仕組みが必要
では、前職での運転経験が豊富な定年退職者を採用すれば、どんな場面でも安全運転ができるでしょうか?デイサービスの送迎車に必要な安全運転能力は多岐にわたり、その難しさはタクシーや路線バスなどの職業運転手に近いかもしれません。なぜなら、時間の制約の中で幅の狭い生活用道路を運転し、同時に障害のある車内の利用者の安全にも配慮しなければならないからです。道幅の狭い生活用道路で子供が飛び出せば急ブレーキを掛けて、車内の利用者がケガをするかもしれません。
では、運転手として採用した人材に対して、どのような安全運転教育を行えば良いのでしょうか?大変ユニークな取組をしている事業者がありますのでご紹介します。この法人では10か所あるデイサービスの運転手を3ヶ月に一度一か所に集めて、安全運転勉強会をやっています。毎回当番になった運転手が自分の送迎経路の地図を用意して、「どの場所にどのような危険がありどのような安全運転を行っているか」を発表するのです。
ある時の勉強会で、ベテランの運転手が次のように発表しました。「この保育園の裏口付近はお迎えのママさんの陰から園児が飛び出してくるので最徐行です」と。すると他の運転手が「私の経路にも同じような場所がありますが、他の道を通りそこを通らないようにしています」と意見を言い、しばらくの間議論が盛り上がりました。この勉強会によって、デイサービスの送迎車に必要な安全運転ノウハウが共有できるようになったのです。