介助中の事故では介護環境の原因が大きな割合を占めている
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特養に入所しているMさん(要介護4)は、軽度認知症の93歳の女性です。脳梗塞による右半身麻痺の障害があり、歩行は車椅子全介助です。また、高血圧症、糖尿病、心不全の持病があり薬もたくさん飲んでいます。
ある朝、入社1年目の女性の介護職員が離床介助で、Mさんをベッドから車椅子に移乗しようとしました。Mさんは体重が30キロと痩せて小柄な方なので、非力な女性の介護職員でも比較的に楽に移乗できると介護職員は考えていました。ところが、Mさんをベッドで起こして端座位になってもらい、車椅子のブレーキをかけて所定の位置に停め、Mさんの上半身を前から抱え上げると、健側の足が踏み出せず前によろけてもたれかかりました。介護職員は咄嗟に体重が軽いMさんなので、そのまま車椅子に載せられると考えましたが、車椅子のフットレストにMさんの足が引っかかり、弾みで車椅子が後ろへ動いてしまい、支えられなくなった介護職員はMさんを転倒させてしまいました。
Mさんは、左半身を床に打ち大腿骨の骨折と診断され、入院の上手術をすることになりました。介護職員は、事故報告書の事故原因欄に「体重が軽い利用者なので油断していた」と書きました。施設長は、「Mさんは、早朝はふらつきがあるから注意するようにと言われていたはずだ。いったい何を聞いていたんだ」と叱責し、主任に「もっと緊張感を持って業務に臨むように指導して欲しい」と指示をしました。
《事例検討解説》
■介助ミスによる事故の原因は職員の不注意だけか?
移乗介助中の転倒など、誰の目にも介護職員のミスが原因のように見える事故が起こると、事故原因は職員の不注意などと決めつけて、それ以上原因分析をしようとしません。確かに目に見える直接的な事故原因は、職員が利用者を支えきれなかったことかもしれません。しかし、「なぜMさんが急にふらついたのか」「なぜ介護職はMさんを支えられなかったのか?」など、職員のミスを誘発する要因が不明なままです。これらミスを誘発する要因を放置しておけば、違う職員が同じ場面で同じ事故を起こすことになるのです。では、この事故のケースで、「移乗介助中に利用者を転倒させた」という介助ミスを誘発する要因は何だったのでしょうか?
ミスを誘発する要因を3つの方向から探ってみましょう。1つ目は利用者側の要因、つまり「なぜ移乗中にMさんが急にふらついたか?」という要因です。Mさんは、血糖降下剤や血圧降下剤など転倒につながる薬を服用していますから、服薬の影響がふらつきの要因として考えられます。2つ目は介護職側の要因、つまり「なぜ介護職はふらついた利用者を支えられなかったのか?」という要因です。体重の軽いMさんですから、上半身を抱えて抱き上げるという無理な移乗介助方法でも支えられると考えたのでしょう。介助動作が不適切であったことが要因です。3つの目は環境要因、つまり「移乗介助を行う環境が安全だったのか?」という要因です。「フットレストに足が引っかかり車椅子が後ろに動いた」ということは、車椅子にミスを誘発する要因があるのかもしれません。
このように、事故を誘発する背景要因を探る時には、3つの視点で検討するとたくさんの要因が見つけられます。この要因分析の手法は、製造業などで使われるSHELLモデル(※)と言われるヒューマンエラーの分析手法は簡素化して介護に当てはめたもので、介護現場では分かりやすいので良く使っています。
介護現場で事故の原因分析と再発防止策の検討がなかなかうまくいかないのは、事故が職員のミスによって起こるように見えるため、事故原因は職員のミスとの固定観念で捉えていて、多角的な要因分析を怠っているからなのです。
※SHELLモデル:ヒューマンエラーの要因を分析する手法。次の5つの要因に分けて分析する。S→software:業務手順や作業手順、H→hardware:用具や道具、E→environment:設備など業務環境、L→liveware:業務を行う本人、L→liveware:業務を行う本人以外の人
■なぜMさんは早朝だけふらつきがあるのか?
さて、早朝の離床介助時にふらついて転倒する利用者がたくさんいます。施設長が言うように「早朝ふらつくから注意するように」ではなく、なぜ早朝ふらつくのかその原因を分析してふらつかないように対策を講じなくてはなりません。Mさんのケースを詳しく考えてみましょう。
前述のようにMさんは多剤服用である上に、転倒の要因となる服薬が多いので、早朝にふらつくことが考えられます。まず、糖尿病で血糖降下剤を服用していますから、早朝に低血糖発作を起こしているかもしれません。高齢の糖尿病患者の3割が夜間不顕性低血糖発作で、異常な低血糖状態にあると言われています。当然早朝のふらつきの原因になります。次に血圧降下剤と利尿剤(心疾患による浮腫の薬)を併用していますから、利尿作用で血圧降下作用が増強され低血圧状態になります。また利尿作用による脱水も早朝は現れやすいでしょう。そして、睡眠導入剤のエチゾラムは半減期が6.3時間と比較的長時間作用しますから、早朝には作用が持続している可能性があります。
そして、最も注意を要するのはMさんの年齢と体格に対して処方量が多過ぎることです。どの処方薬も成人の処方量ですが、Mさんは93歳で体重が30㎏と超高齢で小柄な体格です。超高齢で代謝機能が衰えている上、標準的な成人の半分の体重しかありません。体重80キロの50歳代の患者と同じ処方量では、過量処方になり作用が過剰になっていると考えられます。売薬でさえ「14歳未満半量」などの年齢差や体格差により処方量が異なるのに、なぜ「80歳以上半量」という用量指定が無いのでしょうか?
■安全な介護環境で介助ができているか?
もう一つ、職員の介助ミスを誘発する最大の要因があります。介護環境の要因です。労働安全の分野では、安全教育指導以上に重要視される労災事故の要因が労働環境であり、その改善の責任は専ら現場管理者とされていますが、介護現場では労災事故が少ないため誰も気に留めません。
本事例の介護環境を検証してみましょう。「車椅子のフットレストにMさんの足が引っかかり、弾みで車椅子が後ろへ動いた」とありますから、この車椅子はフットレストが開かない構造の古いタイプの車椅子なのでしょう。当然、アームレストも上がりませんから、無理して利用者の上半身を抱え上げなくてはなりません。安全機能が劣る古い車椅子は移乗介助の負担が大きくなりますから、事故を誘発する大きな要因になります。
また、フットレストに利用者の足が引っかかった時、ブレーキがかかっているのに後ろに動いたと言うことは、ブレーキが効いていなかった(緩んでいたのではない)可能性が高いと言えます。車椅子のブレーキはタイヤの表面を押さえて止める構造ですから、ブレーキが緩んでいなくてもブレーキは効きません。実際に特養などの車椅子を点検して驚くのは、タイヤの空気が少ない、タイヤの表面が摩耗してツルツル、というような車椅子を多く見かけることです。こんな手入れもされていない車椅子で安全な移乗介助などできません。介助しづらい環境で無理をして介助をしていれば、事故の危険が大きくなることは自明の理なのです。
古い施設の管理者に車椅子の状態を指摘したところ、「まあ古い施設だから仕方ありません」と全く改善する気がありませんでした。「こんな古い機能が劣る車椅子では安全なトランスなどできないでしょう」と言うと、「古い車椅子でも安全に移乗させるのがプロの技量ですよ」と訳の分からない返事が返ってきました。労働安全と同様に、安全な介護環境を保障するのは、管理者の仕事だと自覚してもらいたいと思います。